みほしブログ

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語り騙られる控えめな「戦争」小説—『冥途あり』長野まゆみ

冥途あり

少年ふたりと犬一匹が夜の学校に忍び込み幻想的な体験をする『少年アリス 』で1988年に文藝賞を受賞し、デビューして27年。本人いわく〈地図でいうと別枠になっている島嶼部のような〉*1ところで執筆活動を続け、長らく文学賞と無縁だった長野まゆみが『冥途あり』で2015年の泉鏡花文学賞と野間文芸賞をW受賞した。

本作には『冥途あり』と『まるせい湯』という著者の一族の来歴をもとにした2篇が収められている。表題作の『冥途あり』は語り手の父親の人生が、三河島、日暮里、根岸といった東京の東、〈川の氾濫や大火のたびに平らになっては再建され、また流されては焼かれるという地区〉である山手線と隅田川に挟まれた土地の歴史と重なり合って回顧される。訊ねれば東京生まれの東京育ちと答える父。定住せず、暮らしにあわせて家を見つけ東京を転々とするが、東京暮らしにはいくらかの断絶があった。

父が亡くなる。兄が喪主として父の生涯をまとめあいさつする。昭和5年に三河島で生まれ、15歳のとき祖父の故郷である広島に疎開していたものの、動員先が休養日であったため原爆の難を逃れる。以来広島のことを語りたがらず、よく生きた、と。葬儀では双子の従弟やふたりの叔母が親戚に付随したエピソードを語る。あるいは、騙る。祖父の通夜にあらわれた謎の婦人の正体。バターのように墨が溶けるカエルに似た硯の出どころ。父の相続手続きで明らかになる戸籍ロンダリングの理由。ホラ話なのか真実なのかはわからない。それを知っているはずの人間たちは、もう死んでいる。

〈時間も錯綜している。記憶の癒着が起こり、数十年も隔てたできごとが連続して起こったように語られる〉
〈わたし〉は晩年の父が云うことをそう表現する。この小説はその父の語りのように紡がれている。父の話かと思ったら母の戦争の苦労の話に振れ、父の葬儀の描写のなかに父が生きているかのような話が差し込まれる。時間の軸をつかんで読もうとしても、するすると手からすり抜けていく。この小説の軸は〈わたし〉の記憶なのだから。

広島を灼いたもう一つの太陽は、窓ガラスを粉々にし、家のなかにいた父の背中に無数のガラス片をめり込ませた。いつしかガラス片は父の皮膚と一体化する。ガラスは数千万年単位の時間ではほとんど分子構造が変化しないといわれる。父の肉体が焼かれ灰となっても、埋め込まれたガラスの粒は地上のどこかで存在している。人間はそんなに長く存在できない。だからこそ語るのだ。

別枠になっている島嶼部の代表と言えば日本地図における沖縄諸島だろう。沖縄も広島も戦争の記憶がその地に色濃く残っている。戦争の被害者は戦死した人たちだけではない。そして、戦争を知るのは戦争を体験した人たちだけではない。『冥途あり』は戦後に生まれた〈わたし〉が見聞きした記憶を通して描かれた、控えめな戦争小説なのである。

冥途あり

冥途あり

 

 

少年アリス (河出文庫)

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