足止めする飛び石と反涙活――町屋良平『青が破れる』
わりと本を読むほうなので、文章を読むのはそこそこ得意だ。基本的にすらすら読む。
どうしても苦手なのはロシア系の名前で、あいつらは日本人の音節感覚を超えた変形を重ねていく。
ニコライがコーリャになったり、
エフゲニーがジェーニャになったり、
しかもいくつも愛称をつけるのでロシアの小説はたどたどしく読む。
でも、日本が舞台で日本語で書かれた小説、しかも書き手が同世代の日本人の小説を最近たどたどしく読んだ。
あうなりとつぜん
とか、書いてあるのだ。そのひらがなのかたまりにぶつかったとき、なぜかわたしは「おーなり由子」の名前を思い出した。
もう一度そのひらがなを読み直して、ああ、〈会うなり突然〉か、と理解する。
第53回文藝賞受賞作であり、第30回三島賞候補作でもある町屋良平『青が破れる』は基本的にはとても読みやすい小説なのに、ぽつりぽつりとひらがなのかたまりが出てくる。
むいていないきがしていた
おれのことをぜんぜんすきじゃないことをしってる
安野モヨコの『働きマン』というマンガで、マンガ編集者が庭師に取材する話が出てくる。いま手元にマンガがないのでうろ覚えだけど、作りこまれた日本庭園に敷かれた飛び石のなかに、歩きにくく配置された箇所が出てくる。
編集者が戸惑っていると、そこからの眺めを楽しんでほしいから、あえて足が止まるように飛び石を打っているんだと庭師の方が言う。
『青が破れる』のなかのひらがなのかたまりにぶつかるたび、わたしは戸惑った。すすす、となめらかに行を移動していた視線が止まり、もう一度、多いときは二度ほど読んで、ああ、とひらがなの意味を咀嚼する。
このひらがなのかたまりは、「足を止めさせる飛び石」なのだと思う。読む時間を強制的にゆっくりにさせることは、短い枚数で複数の死が出てくるこの小説のなかで、読み手を鎮静させるような効果がある。
「あいつ、ながくないらしいんよ」
とハルオはいった。
冒頭からこうだ。
主人公の秋吉がハルオの彼女の見舞いにいった帰りの場面から小説は始まる。ハルオの彼女、とう子さんは〈ナンビョー〉のたぐいで余命いくばくもないらしい。
ここで「女殺し難病もの小説アレルギー」持ちのわたしは一気に身構えるわけだけど、ぜんぜん違う。悲しいことを悲しいと書いて共感を揺さぶるだけの難病もの小説とは、ぜんぜん違った。
人が死んでいなくなること。死んだ人のまわりの人間関係が変化していくこと。人が死ぬのは悲しい。若い人が死ぬのはもっと悲しい。けれどその悲しい、という感情の外と後までさらりと描かれている。
わたしは読み終わっても泣かなかった。
かんたんに泣いてカタルシスを得てすっきり忘れられる小説を求める人にはおすすめしない。
かたまりにぶつかって考えたい人、考え続けたい人にぜひ読んでもらいたい一冊です。
同じく第30回三島賞候補作の書評です。