みほしブログ

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繰り返されるほどぼやけていく「小学生」小説—『学校の近くの家』青木淳悟

学校の近くの家

小学生ってとても不自由だ。小学校は基本的に住む場所から行く学校が勝手に決められてしまい選択肢はないし、友達も大半はその学校のなかで選ばざるを得ないし、家族はそれ以上に選ぶ余地がない。カネもなければアシもせいぜい自転車くらい。それなのに高学年になればいっちょまえに自我も芽生えてきて、親や学校を俯瞰して眺めるくらいの知恵がついてくる。

青木淳悟の『学校の近くの家』の主人公、小学五年生の杉田一善も不自由な小学生のひとりだ。昭和56年生まれ、背の順は前から四番目、家族は母と父と9つ年の離れた妹。そして何より、本のタイトル通り『学校の近くの家』に住んでいる。その近さといったら、正門から徒歩1分未満、全校でただ一人登下校班に所属せず、3階の教室から家の玄関と窓がまる見えっていうのだから小学生にとっては一大事だ。
教室の自分の席から仮に火事を目撃しても「家が火事だ!」と叫べるかどうか自信が持てなかったり、土曜日の午前中に家の2階の窓辺でパジャマ姿のままダラける父の姿を恐ろしく恥ずかしいと思ったり。あまつさえ父が光学三倍ズームのハンディカムを手に入れ、自宅2階の窓から息子の体育の授業を勝手に撮影し『五年生 体育』などというビデオを作成し始めた際には、数年前に起きた宮崎勤事件と結び付けられるのではないかと心悩ませたりする。父だけでなく、母もなかなかのくせもの。PTAや地域の活動に熱心な母に、一善は自分の友人関係を振り回され、巧妙に仕組まれて学校のズル休みまでさせられる。そのうえ2年生の後半からは何があったのかよくわからないうちに〈家で学校の話をするのはやめてほしい〉と通達され、家と学校の板挟みという大変疲れる経験をする。あぁ小学生はかく不自由なり。

著者の故郷であり小説の舞台となる埼玉県狭山市の緻密な地理や、その地の歴史と近辺で起きた出来事を丁寧に織り込みながら、一善は何度も五年生までのことを回想し、何度も同じ時間が小説内に立ち上がる。同じ時間を重ね合わせるとより立体的に一善の小学生ライフが立ち上がる、なんてことはない。思い出すたびに注視する事実はぶれ、同じ時間が語られるたびぼやけていく。記憶を反芻するように。それが読んでいてとても楽しいのだ。

著者の青木淳悟は1979年(昭和54年)生まれ。本作と同じく中毒性のある反復を繰り返す『四十日と四十夜のメルヘン』でデビューし、2012年『私のいない高校』で三島由紀夫賞を受賞している。一善より2歳年上のお兄さんだ。本作は2014年から2015年にかけて発表された短編をまとめた連作短編集で、著者がいい大人になってから大人に向けて書いた小学生小説であるのに、甘やかなノスタルジーでまぶされた描写が全くない。けれどもとても懐かしい。まるで著者の脳みそが小学五年生男子のなかに宿って執筆したのではないかといぶかしくなるほど、子どものときに感じた理不尽さや不自由さ、恋愛以前の意識しあう男子と女子の関係や、学校のイベント特有の高揚感がそのまんま描かれている。

親という生き物は我が子をそのまんま捉えることが難しい人種である。他所の子よりちょっと優れた点を見つけると「この子は才能がある!」と鼻息を荒くし、意にそぐわない趣味嗜好男女交際を見つけると「この子はもうダメだ」と落胆する。自分の子どもの頃と比べてみろ、と言いたくなるが美化された記憶のなかの親の子ども時代と比較されることは子どもにとっていい迷惑だろう。美化も郷愁もないそのまんまの小学五年生の感性が映し出された本作を読んで、ごまかしのない自分の子ども時代を思い起こし、ひいては今なお続く子どもたちの不自由さ、子どもたちへの自分の影響力の強さへ思いを馳せてみてほしい。そうすることによって、そのまんまの我が子の姿が少しだけ視界良好になるだろう。

学校の近くの家

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